connect

人はただ独りでいる時よりも、他者という自分以外の存在を得てこそ、反発や共感などの刺激を覚えながら思わぬ現実の自分の姿や心情を見つけたりする機会が多いのではないだろうか。

 

私にとっては、それは特に生徒さんであったり、観客であったり。時には家族や仲間であったりするわけだけれど。

 

『無難に、という言葉は大嫌い。そのような選択はあり得ない。私の辞書にはない!』とレッスン中にパッと口から出て、そうだよな、その通り!と自分に激しく同意。

自分は、自分で思っていた以上に、激しい人間らしい、と最近ようやく自覚し始めています。

 

 

自分の身体をどのように統御するか、という方法について、今日生徒さんに説明していた時に、ああ、なるほど、そうかもしれない、と閃いたことがあります。

 

汝の敵を愛せ、汝の隣人を愛せ、とキリスト教の教義にはあるし、合気道の開祖、植芝盛平翁も同じような極意を語っているけれども、

それは苦い薬や道徳のように、そうしなければ完成した人間にはなれませんよ、という意味だけではないのかもしれない。

他人を自分のように愛することによって生み出される、利己も利他もない場であればあるほど、自分の能力やビジョンが、外に向かって最大限に発揮され、伝わるからなのではないだろうか。実は自己実現のもっとも近道で強力なヒントなのかも。

 

 

身体の統御が上達してくると、どうやって筋肉を使うか、というより、いかに筋肉を緊張させないか、というところに落ち着く。音は空気の振動で伝わるし、振動をより効果的に伝えるには筋肉を固めず、リラックスした状態であることは想像容易い。

骨格にかけるのは自分の身体の重さ、または重心の移動を利用し、より深部の体幹というか、鍛えられたインナーマッスルだけが芯のように残っていく感じだけれども(未だ道半ばですが、、、)

筋肉や内臓が緊張しないで息づいている部分が多ければ多いほど、より想念や心象などが伝わるパーセンテージは大きくなると思う。

だからこそ、聴き手がリラックスしているかどうかも影響はあるだろう。

人間としての共通項が深いところで共鳴すればするほど、心が揺り動かされる可能性が増えるのではないか。

故に、「汝の隣人を愛せ」なのである。

 

 

あはは

思い至ったのは嬉しいけれども! だ。

「無難に」=難しく無い、なんてことは私の辞書には無いんだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Girls

チャリティーだから、というだけでは無いとは思うけれども、お金というものが絡んでくるのか、こないのか。この行為のそういう繊細な一面が人をどこかで強く刺激するのか、人の思わぬ反応を見たりして、世の中には本当にいろんな人がいるんだなあ、と思う。

 

 

 

もちろん好意的な方々や、共感して動いて下さる方々はとても多くて、幸せな気分で満たされる機会や、素敵な方に出逢う機会も増えました。
感動と感謝の気持ちでいっぱいです。


逆に「こんなこと、チャリティーなんてやってたらあかん。かわいそうに、、」と目の前でボロボロ泣かれた時には、チャリティーの何が可哀想なのか理解出来なかったけれども、ああ、この人は仕事とか、世間体というものに対して、何かそういう重いものを背負って生きてはるんだなぁ、と思ったり。

自分ではチャリティーや後輩を教えることなど、まだ動き出しはじめではあるけれど、けっこう自分の好きなことだけをして生きていると思っている。が、
人間関係のしがらみに巻き込まれて大変だねえ、とか、御自身が被っているらしき重いものを私にもムリに着せようとする人もいる。
そういうのは、本当に要らない。


私も含め、人は自分のかけたメガネでしか世の中を見ることは出来ない。
みんな色々大変なんだな。




私の前世は中央アジアの方で踊り子の様なことをしていた、と以前、不思議な過去を読んでくれた人がいたことを書いたけれども、その時面白いことも言われました。

当時から、男の人のことを、けーっ、、って思って見てたらしい。権威とか、そういうのを着る男性を馬鹿じゃないか、と信用していなかったとか。当たっているかも、と大笑いしました。
勘違いの男性陣をまったく相手にしていないので、男尊女卑とかいう、差別があることすらも気にならず、だから腹が立たないのだとか。




以前、わたしがある場所で、お茶を淹れるという行為を手伝ったことで、ある女性に叱られたことがあります。「あなたみたいな女性がいるから、女にお茶汲みしてもらって当たり前だ、みたいな勘違いをする男性が出てくるんだ!」と。でも、わたしは、もしあの場所が全員女性だけのメンバーであったとしても、自分はやはり率先してお茶を淹れていたと思う!と言うと、彼女は不満そうだった。



そんな温厚なわたくしが、最近猛烈に腹が立てていることがあります。

私に直接ではないですが、生徒さんに
「この曲は元気な男の子なら似合うけれども、あなたには似合わないんじゃない」
と言われたと。



音楽に性別を持ち込むとは、何事か、と思う。
それを発言したのが、同じ女性であるということにも、余計腹がたってます。
自分が弾けないのを、他人に転嫁するのは情けない。
また、それを年端のいかない、大人を信じる女の子に発言するとは。
神経を疑う。ありえない。



今日は国際ガールズ・デー。
自分らしく。
世の中に腹をたてるのは、第3チャクラ、お腹の筋肉が座って?立って?きたからだと思ってます。
万歳☆








Listen to myself

ふとしたきっかけで、以前に教えていた生徒さんが身体を壊していたと知った。

楽器を弾く姿勢だけが原因ではないそうだけれども、一因となったことは否めない。

彼女を教えていた当時は、それほど自分でも「立ち方」を確立していたわけでもないし、

今ほどには踏み込んで口うるさく言わなかったし、、、

自分にもその責任の一端はあるような気がして、何だか申し訳がない。

 

しかし、何事も経験の一つだとこの体験をプラスに転換し、

この際、身体の動きを分析、マスターしてスペシャリストになって欲しい。

こういう時間がかかる問題に当たった時に、「この子は楽器を辞めちゃうんじゃないだろうか、、」と思わせる人たちもいるけれど

彼女は何よりも音楽が好きだし、ガッツがあるので、必ずやってくれると思う。心配はしていない。

大きく育ってくれることを楽しみに待っています。

 

 

自分に置き換えて、

いろんな本を読んだり、話を聞いたりして、他の人のアイデアを知ることはできるけれども

立ち方や体の動かし方にも、単に筋肉や骨の動かし方だけではなく、心や知性も関与する「個性」が顕われる以上、誰のやり方も鵜呑みにすることは出来ない。

楽器を弾くのは運動の効率性だけではなく、共感を呼ぶ再現運動でもあるのだ。

 

また、こちらの方がいくら真実に近い、という「方法」があったとして、その「方法」を生かせる身体の柔軟性や筋力などの「準備」が出来ていないと、その真髄は正確に伝えられない。

その「準備」のために別の運動をしてそこに必要な柔軟性や筋力を鍛えるようにしても、その筋肉を使う「意味」がわからない者に、正確に運動の真意は伝わらないと思う。

 

見えている者は、見えていない者を、正解の道のごく近くまで引っ張ってくることは出来ても、そこまで、だ。

最終的な答えは長い時間をかけて自分で見つけ出すしかない。

馬を水辺に連れて行くことはできても、水を飲ませることはできない、だ。

むろん、見えてない者には、同じく見えていない者をそこまで引っ張ってくる力も無い。

 

 

 

答えは「今の状態が表れた音」と、それを「受け止める、聞く耳」と、「現在」の自分の身体の中の声を聴きながら、雑音がない「理想」の方向へと探り探り進むしかないように思う。

まるでヨガのようなことをしています。

 

 

いつかは完成するのだろうか。

私も頑張ろう。

 

 

 

 

 

 

 

Weight

昨日、歯医者さんに定期検診に行ったら、口の中を診た先生が
「あれ?!」
と驚きの声をあげていた。
私の歯には、1本爆弾を抱えているような子がいて、
ストレスがあったり、何かの拍子に具合が悪くなる。
それもこれも、ヴァイオリンという楽器が、顎の下に挟んで弾くタイプの楽器なので
骨伝導もするし、思いっきり嚙みしめるからだと思う。

その問題児ならぬ問題歯の具合が、見違えるほど良い健康状態に回復していたから、びっくりされたらしい。


やっぱり!!!
「立ち方というか、体重の足への落とし方が分かったみたいなんです!!」
と、嬉しくなって歯医者さん相手にフォームの実演をやってみせる私。

これは、やはり正しい方法なのかもしれない。
気分だけじゃなくて、
それもプロの先生に褒められるのは嬉しい。


わたしが今行き着いた答えは、結局身体の構造に忠実に、自分の体重を落とすべき骨に落ちるように立つ、というシンプルなもの。
人間の身体には太い骨、細い骨、色んな骨があるけれども、長い進化を経て太い骨は体重をしっかり支えるために太いはず。だから太い骨にうまく自分の体重を乗せること、落とすことができれば、実際足の踏み込みだけで弾くことが出来、無駄にそれ以上の力を入れる必要はない、という考え方。

色んな人に身体の知識を教えてもらったり、数多く本を読んだり。
答えを求めていたら、答えの方が私に近づいてくる気もするほど、ここ十数年間のテーマです。


フォームや立ち方は、呼吸や血流、心や頭の閃きにも直接関連してくるし、そこにすでに人物、性格もあらわれている。生徒さんなどを見て、明らかに色んなタイプがあることを痛感すればするほど、研究に終わりはない。(色んなタイプがあること自体は悪いことでは無いです。)
ただ生徒さんに骸骨の図を見せて説明をし、頭では構造が分かってもらえたとしても、実際自分の身体を使いこなせるまでには、相当な身体の声を聞く訓練が必要なのも事実です。
(こういう性格と身体、立ち方や弾き方の関連性を日本人だけじゃなくて、人種別や国別にもデータを集めたいというのが、ちょっとした夢)


世の中にはそういうことで困っている人も多いのだから、なんかメモかなんかを残しておいて、将来本にすればいい、とも歯医者さんに言われましたが、
健康本や、骨や身体の使い方本なんて、世の中に有り余るほど出版されています。


実践で証明あるのみ。










Hand

 

ただいま。夏は過ぎ、松本での一週間もあーっという間に終わってしまいました。

一抹の寂しさ。

夏休み中の子どものように、毎日バッサバッサ羽を広げて自由を楽しんできました。

 

 

向こうでは、数年前に知り合い、いつもあちらに在留中細々と面倒を見て頂いている松本のYさまご夫妻に一年ぶりに再会して、

「なんか、慎子さん、貫禄がでてきた」と嬉しいお言葉を頂きましたが

(それは決して、太ったね、っていう意味じゃないことを願いたい…)

昨年の秋から、私を囲む状況は、かなり変化したと自分でも思います。

 

チャリティー活動を通して「音楽の価値」について考えることであったり、自分を頼ってくれる生徒さんたち、面倒を見てあげなければいけない人たち(それも自分にとっては多すぎるほどの数)の存在がかなり大きく、

ついに!私の人生の船もとうとう!!動き出しているのかもしれません。期待を込めて。

 

 

 

帰ってきたら、ピーチクパーチク、餌をねだるヒヨドリの世話に追われるように

学校に、レッスンに、京都に、と慌ただしいですが

たった一週間で「先生がいないと寂しいです」なんて、可愛いことを言ってもらえると

ああ、もうしゃーないな。めんど、みたんなあかん(大阪弁)と思う単純者。

 

 

 

 

 

松本では、ピアノの内田光子さんと小澤征爾さんとの共演に参加するために行ったのですが、なんと内田さんの「オーケストラが大き過ぎます」との鶴の一声で、なんと降り番になってしまいました。

 

だけれど、それが私にはすごくビタミン剤のように効きました☆

しばらく自分の音楽(バッハ)を弾いたり、生徒さんを教えたり、音楽をアウトプットすることが多くて、逆に音楽をインプットすることに飢えていたから。

それにオザワフェスティバル前日まで学生コンクールの審査員などをしていたので、耳が、頭がかなり疲れていて、より「単純に美しい音楽」に異常に飢えていたんだと思います!!!

 

 

練習も全部客席で聞けたし、本番の日の内田さんの独りでのウォーミングアップもストーカーのように聴きました。どうやって調子を整えるのか、クールダウンしたものをどうやって取り出すのか? とか、とても興味があったから。

内田さんの自分の内面の音楽への純度をかなり高めてからの、本番での心の扉の開き方には、本当に感動しました。

何のために音楽をするのか、という最も根本的な姿勢が、本当にふとした時に舞台で見えたり、聴こえたりするのが面白いし、自分が普段は舞台に乗る側であるので、それが怖いとも思う。

 

また、管楽器のスーパースターたちが、日々楽器の練習だけじゃなくて、身体のトレーニングをする意味もわかるような気がしたし、

全部が聞こえている。舞台は正直だな、と思いました。

 

 

自分の身に振り替えて、頑張ろうと思います。

 

 

そして。こちらで待っててくれた生徒さんたち。

出産も子育てもしたことのない私が、各々いろんな状況や環境を背負う青年たちの精神的な健康を、果たして担えきれるかどうか。。どうかな。 あはは

 

しかし、一旦やり始めたことは、簡単にぽいっと棄てられるものではない。

心身を尽くして自分のベストを尽くそうと思う。

 

 

 

 

 

 

 

on the border

 

求めているものは、相反するエネルギーがせめぎ合うギリギリの線上にしか無いのでは、

と、最近思うことが多い。

 

 

自我に近い愛、いわば愛情の押し売りスタイルと

ありのままの姿を受け入れる、相手に過度な期待はしないというスタンス。

 

どちらに偏っても真実の姿は見えなくなる。

対象が作品であれ、生徒さんであれ、人間関係であれ。

 

 

身体やフォームを整えるのは、目に見えるもの相手だからまだ簡単だ。

重力と自分の身体と、うまく付き合えさせれば良い。

 

しかし、愛が生み出される肝心の「心」は目に見えない。

油断すると感情は一瞬のうちに凪から嵐に変わり、という変貌を遂げる。

そこまで酷くはなくとも、澄んだ心の状態を常に保つのは難しい。

 

 

だからこそ

歴代いろんな人が色んな挑戦をしてきたわけだけれど。

凡人には答えは遠い。

 

 

 

ところで

時に、何かのご褒美のように

相手に伝わったな、とジーンと感じられる「おまけ」が付いてくる。

そのお題が「見えないもの」であれば喜びもひとしおだ。

だからこそ、やめられない。

 

 

偏っていようが

根本に「愛」がなければ

真実には届かない。

しかし、その「愛」をより歪みのない大きなものへと整えたい、、

冒頭へ

 

とくるくる、同じところを廻っている。

 

 

 

 

 

change the world

 

昨日は尼崎で行われたOKバジこと、垣見一雅さんの講演会に参加してきました。

ネパールチャリティーコンサートで集めた寄附は、現地では垣見さんを通じて活用されているという、大事な方です。

 

いきなり写真を見せてお知らせしたら、

皆を驚かせて楽しいかも、と思って黙っていましたが

 

確かにお会いして、

サリーまで着ることになって(かなりのオリジナル着付けで)

なんちゃってサリーの姿でヴァイオリンを弾く、という

面白い体験までしたのですけれど、、、

 

しかし、、

写真が無いのです。。

アシスタント(いわゆる父)が撮った写真は、ひどいピンボケならぬひどいブレブレで使いようがありません。

 

 

サリーの着付けは長い布を身体にぐるぐる巻きつけていくだけなんですけれど

最初の巻きつけをかなりキューっと締めないと、解けていくような気がして(実際解ける)

明治時代に女性の自由が謳われた時に、洋装も共に浸透したのは

確かに一因があるな、と実感できました。

イサドラ・ダンカンがふわふわの身体を締め付けない衣装を身に着けて踊り出した時の

皆の反感と衝撃は凄かった、と読んだことがありますが

さもありなむ。

女性が肩甲骨を解放し

自ら自由な生き方を享受するには

洋服の発展は大きな役割を担っているのだな、と体感できました。

 

 

この間、私の前世で、インドあたりの中東で踊り子をしてた時期がある、、

という興味深い過去を読んでくださった方のことを思い出し、

もし、そうであったのなら

「わたしは強い気持ちでサリーを脱ぎたかったのかもね」と、ちらっと思いました。

 

 

 

これは夢か、呆けちゃってるのか、っていうぐらい

不思議なことを書いてますが、これは本当。

毎日楽しいことが起こっています。

 

 

I cannot change the world,

But I can change myself.

 

昨日バジさんが紹介してくださった一文。

バジさんの本を読むと、この一心で色んなものを、御自身の中から削ぎ落とされてきたのが分かります。

だからこそ、輝いていらっしゃるのだと納得できます。

人の輝きは、他から与えられるものだけではなくて

自分で磨きをかけて創り出すもの。

 

 

会場には綺麗な方たちがたくさん集まっていらっしゃいました。

わたしも頑張っていこう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

父のカメラをチェックすると

謎の写真がいろいろある。

 

 

これは熊野灘でのいつかのわたし。

 

future

 

いつも新鮮でいることは難しいけれども

ひとを型に嵌めて見ようとしないこと。

初めて逢う人であれ、

これまで何度も会って、「知ってる」と思いがちな人であれ。

 

器用な人もいれば

不器用な人もいる。

一見器用なのが、真実は不器用なのだ、ということもあり得るし

その逆もある。

 

自分が見たままが全てだと思わないこと。

 

そのひとの中にある「神性」に頭を下げること。

 

今年の、というか、これからの目標。

そういう人間でありたい。

 

 

誕生日に撮った写真と共に。

 

 

 

 

 

Believe

これが流れというものなのか、やるしかない!やります、と心を決めてから尋常ならぬスピードで世の動きに巻き込まれているように思う。

結局は自分の心持ち次第がすべて、事象の原因になっているのかもしれない。

 

昨年後半から特に春、教えるべき生徒さんがすごい勢いで増えた。

人は一人一人、その人でしか出来ない生き方、問題を超えて成長をする過程にあるのだから

個性の差はあれど、何の問題もなく簡単に生きていける人など誰一人いない。

先立つ者として、それぞれの個性に寄り添って、進む道の先の大きな世界を指し示すことぐらいしか出来ないが

若い才能はキラキラしていて、未来がとても楽しみだ。

 

 

身体を統御する技術を覚え、呼吸を操り、(まるでヨガの行のようだけれども)

心。それも表面的な感情レベルではなくて、思想や精神も超えた魂とかスピリットと言われるものに触れるような。

その奥深い魂の扉を本番の舞台の上で開くことができるか、否か。

そこが自分の演奏をする醍醐味でもあるけれども、精神的にギリギリの縁を歩かなければ、そこには辿り着かないことに最近気づいた。

 

怖いのは当たり前なのだ、と思う。

「怖さ」というのは自分が本当に好きな人に「I LOVE YOU」を初めて言う時の怖さに似ている。完全にそうでない、とは思わないけれども、拒絶されないとも限らない。毎回毎回、その怖さを味わっている。

「怖い」というのは、私が演奏家に向いていないからだ、才能がない、と考えてしまうことがあったけれども、

私がバッハの音楽を覚えているのは、譜面からではない。リズムでも音高からでもない。

 

生徒さんに見本を見せようとしてちゃちゃっと弾こうとした時、まるで弾けなくてびっくりした。

週末同じ曲で本番なのに、そんな音楽、弓の方向?音程?知らんで、、、という事になっていて自分でも呆れた。

もっと深い身体への振動とか、その滲み具合で私の中に入っている。その奥深いところから出してこない限り、私の弾きたい音楽は成り立たないんだ、と体感した時に腑に落ちた。

 

 

姿勢も精神的にも完成するところはまだまだ遠いけれども

少なくとも怖い、というところから逃げないという決意と覚悟は出来た。

 

 

与えられたチャンスに感謝して毎回挑戦していきたい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Love

 

最近このブログをあまり更新していない。
更新しないのは何も起きていないからではなくて、書けないほどに思うところがあり過ぎ、公にするにはあまり向いていない心情、話題であるな、とひけているのである。
新しく出逢う人もいれば、いつの間にか遠くに過ぎ去っていく人もいる。
人生は旅のように喩えられるから、それも必然。同じ場所に留まるほど不自然なことも無いだろう。
色んな人と関わりを持つ中で最近思うのは、自分の人生は自分でしか救えない、決められないということ。
両親や兄弟、友人など、自分にとって近い人たちの人生とも深く影響を与え合っているのも事実だけれども、
究極のところ、神に愛されている自分自身を信じられる、守りきれる、という自信を持ち、覚悟が決まっているか、というところになると思う。
いきなり「神」という言葉が出てきて吃驚されたり、拒否反応を覚える方もいらっしゃるだろうけれども、追々説明するのでまずはそのまま呑み込んで頂きたい。
それに「神」について語るのはタブーではないと思う。
わたしがここで「神」というのは特定の宗教の神さまではなくて、(というか、別に何教の神さまでも構わないのだけれども) 宇宙や自然、世界を生み出したような根源的な善意のエネルギーのことをそう呼んでいる。
自分の「心」は目には見えないものだけれども、同じく自分以外の世界の全てにそういう巨きなエネルギーの流れが至るところに存在することが想えるか、感じられるか。
 
地球が太陽の周りをくるくる廻っていて、その地球の周りを月がくるくる廻っている不思議からも、それは簡単に想像できそうなものだ。
目には見えない力の存在に気づかなければ、
強い自分自身(と思い込む)だけでもやはり不十分なのだ。
自分と宇宙、世界との調和が成り立たない。
それぞれ事情はあれど、
本当の自分自身を、自分では見つめられなくなった人がいる。
悪意はなくとも、自分以外の世界が上手く想像出来ず、調和することが不可能な人もいる。
また、見えない世界への感覚は過敏にある人であればこそ、
しっかりとした「大いなる存在」を信じることが出来なければ、やはりその混沌とした世界から自分を這い上がらせることは出来ない。
その巨きな存在は「神」と呼んでいいものだけれど、
その概念は他人が口出しできるようなものではない。
他人に薦められて身につくような宇宙観、「神」観では不十分なのだ。
自分の「神」は自分自身で出逢わなければばならないのだと思う。
 
 
またこの「神」というのが、色々ムズカシイ。
思い切って言えば、怪しい神さまと呼ばれる存在もある。
それは新興宗教だから云々、老舗の三大宗教の一派だから云々とか、そういう問題でもない。
この数年、哲学や宗教など、目には見えないものの世界についての本を読むことが多いけれども、わたしが何の答えを探しているかというと、ある人が現生利益の力を授ける存在を神と呼び、そこに誘われることに、どうして私は直観的に「それは違う」と強く否定出来るのか。
新興宗教だから、とか料金が必要だから、とか理由はそこではない。その答えを明確に差し出したくて色んな本を読んでいる。
自分自身に対して。そして自分以外の全ての存在に対して。
誠意を尽くす、誠実に生きること。
(私にとっての)中途半端な神さま観では、そこに歪みが生じるからであると思う。
しかし、このわたしの「答え」も、通じない人には、通じない感覚であるのは想像容易い。
どのような現象であっても、一周廻れば良いところがあり、悪いところがある。
それが共鳴調和しているのが現世であり、それを個人の狭い視野から否定することは自然に反している。
つまりのところ、この世ではどのような存在も、本物の「神」にとっては許された存在であるのだ。
巨きなエネルギーは「神」の愛と呼んでも良いだろう。
「神」に愛されているという事実に気付いた存在は、自らも愛を拡げることで貢献するしかない。

Happy news

水戸のツアーを終え、その後の仕事も済ませ、10日以上ぶり、久しぶりにアトリエです。
小澤さんと演奏出来るのは、本当に貴重な体験、勉強で自分の身になっていると感謝しています。
演奏している皆んなが皆、本当に心からそう感謝出来る音楽会、音楽家は、正直なところそうは多くないので、自分はたまたま参加させてもらっているけれど、かなり恵まれているなぁと思います。

それに、旅先では色んな先輩や仲間とご飯を食べたり、話す機会が多く、
自分でどう対処していいか、何が正しい答えかわからないような問題を話してみると、
先輩方はもちろん、過去に同じような経験を沢山積まれているので
笑ってアドバイスや経験談を話してくださる。
心が軽くなりました。
感謝。


そして、今日。アトリエの郵便受けにネパールのOKバジこと垣見さんからお手紙が届いていました。
昨年夏、和歌山、新宮の教会で行ったネパール大地震からの復興支援チャリティーコンサートで集めたお金で、ネパールのパルパ県ガルダ郡サルブラージュ村のビジェイ小学校に図書室が出来上がったらしいです!!!
すごーい!!!!
垣見さんからのお手紙は、また改めてホームページ上で公開させて頂きます。

テレビで垣見さんがネパールで生活する様子をたまたま見かけたことがきっかけで、
こんな素敵なプロジェクトが動きだすとは思ってもいなかったです。
私は楽器を弾いただけですが、
コンサートを実行するには色んな人が手を貸して下さって、
そして寄附をしてくださった皆さま。
もちろんOKバジ垣見さんのこれまで築き上げてこられた現地の人たちとの信頼関係があったからこそ、こんなことが素晴らしいことが実現したんだと、感謝と驚き。

この図書室が継続するには、もっとアイデアを出したり、皆で育てていくことが重要だとOKバジ垣見さんもおっしゃっています。


私のヴァイオリンでも他人の役に立つことが出来るんだと、単純に嬉しいです。
もっと能力を換金して、
あはは
他人のために役に立たなければいけない。
大きな課題を背負わせて頂きました。


がんばりましょう!!!!

写真は寄付金を生徒、父兄全員の前で父兄会会長に小切手を手渡すOKバジと、1人100ルピー(を65人分)でノートとボールペンをそれぞれプレゼントしてもらって、ポーズを取ってくれる子供たち。



Let it be

2017年明けましておめでとうございます☆
今年も全ての人にとって良い年になりますように。


人生には流れというものがあるのか、
昨年後半ぐらいからか、今までの価値観では何ともならないな、と一歩引いてみるような出来事に多く出会うようになった。

というよりも
それは善悪とは関わりなく、自分の力や意思の強さでは何とも役には立たないのだ、という
他者の事情をようやくじっと見つめられるようになっただけなのかもしれない。
これまでだって単に自己満足が勝っていただけなのだろう。


他者に期待をしない、ということは
自分の中で切り捨てる、見棄てる、という行為と同等のような寂しさがあったのだが

それは自分の中の問題であったのだろう。
と、今は思う。

そのまま受け容れる、受けとめる。
切り捨てるのではなく、愛を拡げると思えば良いのだ。

それを学ぶために、
色々な人に出逢わせてもらってるんだと思う。

他者によって傷付けられることよりも(そんな経験はあまり無いような気がするが)
自分の中に恥じ入るべき価値観、そういう美しくない部分を自分で見付けることほど衝撃なことはない。

もっと色んな人に出逢い、学ばなくてはならない。
 
自分に出来ることが限られているからこそ、
通じる人や
笑顔に出来る人、大事にしよう。


今年もよろしくお願いします。







image

 

音楽を言葉で説明するのはとても難しい。

それこそが音楽の本質かもしれない。

 

自分の価値観だけが絶対的に正しい、とは思っていないけれど

今更そんなことは言ってられないので、ある程度は開き直って。

 

 

 

わたしに見えている世界は

現実の、眼という器官では見られないのかもしれないけれど、

色彩や光度や速度や素材の違いや、香りや温度や湿度とか、もう現実世界よりも自由に!そこにある。

その豊かな個性を持つそれぞれの存在の「調和」のあり方こそが、音楽の意味を説いていると思う。

 

見えてくればくるほど、言葉で説明するのはますます困難になっている。

想像力と言葉を尽くし、実演で糸口だけでもわかってもらおうとするけれど

なかなか。

 

あはは。

悪戦苦闘ではなく、

楽しみながらの試行錯誤。

 

サリバン先生か?!

 

 

 

 

言葉よりも、もっと音で納得させられるように

パワーアップしたい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

power

大洗磯前神社 
大洗磯前神社 

 

水戸から帰ってきて、また日常がスタートしました。

 

本当に、いろんな、出会う人にわたしは救われているんだなあ、と思う。

 

たとえそれが、傍目わたしが手助けしてるように見える人たちであっても

 

実は救われているのは、わたしだ。かなり。

 

 

もっと強烈に還せるように、真っ直ぐな中身にならなくてはならない。

 

あはは

 

根性叩きなおし、です。

 

 

     意志とは、思考をエネルギーへと変えるもの。ーーーパラマハンサ・ヨガナンダ

 

 

 

 

 

The meaning

自分というものが、他者からそういう風に捉えられていたのか、と率直に知ることは新鮮であり、驚きでもある。

こちらはそんな風に考えたことすらないのに、AさんにはAという印象であったりBさんにはBという印象であったりする。
わたしは大多数の人と比べて、考え方や時間の感じ方や諸々、ペースが異なっている。益々その傾向は増している。指摘されることも多いし、自覚症状もある。これは卑下しているのでもなく、得意がっているわけでもなく。そしてそれを表に出すことのテンポもオリジナル。
仕方ないことだ。
そして、仕方ない、というこの諦めが、ある人にとっては大いにユーモアにもなるだろうし、人をイライラっとさせる原因になっているのもなんとなく分かる。
器用な方ではないのは重々承知しているものの、
この不器用さのせいで、他者が私を笑ったり、見下げたりすることは多くあり、
そしてそのことを逆手に、わたしは此方側からその人たちを冷やかにジャッジしている一面がある。
このあまり動じなさ振り、がエラそうにしてる、と見えたりもするらしい。驚きだけれど。
小さい頃からそうだったけれども、
わたしは他者に期待をしない、というある意味冷酷なものの見方をしている。
じゃあ、生徒さんのレッスンもそうなのか。生徒さんには期待しないのか。聴き手に音楽が伝わると思っていないのか、とか、そういう私の仕事の根本的なところにも深く根差す問題なのだけれど、それは少し異なる。
わたしはベストを尽くすけれども、それを活かすも殺すも生徒さん次第。伝わるも伝わらないのも、なんかもう天任せ、という心持だ。その努力の方向も、突き詰めれば他者のためではない。自分が後悔しないため。超利己主義と呼ばれても、人生とはそのようなものだと思っている。
まあ、この冷たさは、分かる人には分かるだろう。
感じる人は色んなところから感じとっていると思う。
しかし、直せはしない。
(まあ、この先、考えを変える出来事がないとは限らないけれども)
といって、
自分に自信がまるであるわけではない。
これが常に私が闘っているところであり、
もう一つの私のアイデンティティーの柱だ。
結局、自分にしか興味がない、と言われれば、その通りなのだが。
こんな私でも、生きる権利はあるのではないか。
だから、生かされているのだと思う。
不完全な私で関わる周りの人たちには申し訳ないけれども、
わたしはわたしに出来得ることを、エネルギーを還元していくしかないと思っています。

smile

充実した夏も終わり、今年は怒涛のように秋に突入しました。

 

ふだん、あまりにものんびり過ごしているので、

皆んなのテンポやエネルギーについていくのが大変だったけれど、

沢山のフレッシュな人たちと弾く機会があって、強いパワーをもらいました。

 

若い、という事実には、

未開発な部分も多く含まれるけれど、

大人に求められる許容性や諸々を、身につけたと錯覚する際に

忘れがちな何か、に気づかせてもらえる気がしました。

 

年齢はとっても

ちっとも賢くなってない、わたしのような存在も(ムリやり)許されているわけですし、

個性とは自分次第。

 

 

もらったヒントがきっかけで、

 

もうだめかもしれない、との

自分を信じきれなくなるメンタルの限界に挑戦するには

微笑むなり、自分自身を笑い飛ばすなり、

笑ってみる、という行為が非常に役に立つことを発見しました。

 

 

簡単なことだけれども。

余計な力が抜ける。

 

まだまだ歩みだしたところだけれど、

しっかりと自分の足で、行けるところまで行ってみよう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

claim

 

せっかくなので、先日、垣見一雅さんの講演会できいたことを

このブログでも紹介したいと思います。

 

どうして、一年経った今でも、ネパールチャリティーコンサートなのか、と訊かれることも多かったのですが

国力の差、やはり日本とネパールでは、豊かさの水準にかなりの差が有り、地震で崩れた建物を再建するまでまだ手が回らないのが現状で、そういう時に一番の犠牲になるのが、経済的に最も貧しい人たち、特に、小さな女の子の教育の機会が奪われたりすることが多いそうです。

学校に行く暇があったら、水汲みに行け、たきぎ拾いに行け、とか。そうすると字が読めない、貧しさから抜け出せない、と、また負の連鎖がはじまる。

 

 

ネパールのカトマンズでは水道はあっても10日に一回しか水が流れない、とか。電気も一日8時間の計画停電がある、とか。垣見さんの住む、田舎ではそれ以上の不便さを強いられているので

日本に帰ってきて、コップ一杯の水を見るたびに、なんて豊かなんだと感激する、とおっしゃっていました。

 

垣見さんは初め英語でしか現地の人と話せなかったそうで(東京では英語の先生をしていらした)、しかし、いつも通訳に間に入ってもらったとしても、ちゃんと訳してくれているかもわからないし、今はネパール語(ネパールの公用語)で現地の方々とお話しされるそうです。

ネパール語でコミュニケーションをとるようになってから、現地の人から訊く話の内容が変わったといいます。

それまでは、水道がほしい、学校がほしい、、とか「要求」だけだったのが

生活に困って食べるものが無い、とか、祖母の身体の具合が悪くて病院に行けなくて困っている、だとか

具体的な、切実な「叫び」として助けを求められることが多くなった、とおっしゃっていました。

 

 

地震のあとから、建築資材が高騰し、同じ寄付金を集めても、なかなか建物を建てるのは難しいので、それよりもバイオトイレというものを設置して、メタンガスを発生させ、それを燃料にすれば子どもたちが往復6時間もかけてたきぎ拾いにいかなくて良くなる→時間が出来、学校に行ける。ということで、バイオトイレを普及させることを今は計画・活動していらっしゃるそうです。

 

バイオトイレとは、人糞や家畜の糞を集めてかきまぜて、発酵させる2.5m×2.5mの装置で、一基あたり日本円で4万円強で購入可能だそうです。それで、一家族が2時間ほど炊事などを行うのに十分なガスが手に入るらしい。

 


学校へは行かない、という理由の中には

友達よりもずっと貧しい身なりで、それが恥ずかしいから、という理由もあったそうな。

贅沢な、とか言われそうだけれど、自分の身に置き換えて、そういうこと、ある。

貧しくても、その子はその子の人生を生きているのだから。

学ぶことの方が大事だけれど、そういう大事なことは大人にならないと分からない子もいるはずだし。

小さなひとりの心の中を無視して、援助だけが順調に進むわけはない。

その問題をどうやってほぐしていくか。



 とにかく、お金を渡すだけでは助けにはならないということ。

現地の人々が、自分たちで未来を考え、進んでいく道のうえで

親身に細かく相談に乗りながら、共に生きようとする垣見さんの姿勢に感動しました。


ネパールの人々に愛されていらっしゃると思う。

喜んでくれている姿を見て、それで一層自分が幸せになる、救われると仰っていらっしゃいました。


素晴らしいな。


 

 

 

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十津川村・谷瀬の吊り橋上より
十津川村・谷瀬の吊り橋上より

ただいま戻りました。

 

充実した熊野への旅から帰ってまいりました。

内容が濃すぎて、まだどの出来事も消化されておりませんが

本当にたくさんの方々の親切なご好意に支えられて、どの日も充実した旅でした。

 

 

熊野に入る前に、和歌山の橋本で、ネパールの方々を現地で支えていらっしゃる垣見一雅さんと、橋本ロータリークラブの方々にもお会いし、お話しすることが出来ました。

 

 

内側から輝いて本当にぴかぴか光っていらっしゃる垣見さんにお会い出来、

テレビで見たのがそもそもの御縁なんですが、

でも実際にお会い出来て、本当に良かったです。感激しています。

 

23日には新宮の教会で、ネパール大地震からの復興チャリティーコンサートをさせて頂きましたが、

ボランティアで受付などを手伝って下さった皆さまにも支えられ、ありがとうございます。

今回の入場者は約80名で、合計111、852円が集まりました。

 

このお金は垣見さんに託し、有効に現地の方々のために使っていただけるようにお願いしてあります。

 

由緒ある霊峰玉置山にある玉置神社での奉納演奏も無事に終えることが出来ました。

霧の漂う神秘的な雰囲気の中、

聴き手がいるのとは違い、ひたすら神々に捧げるために演奏する、というのはまた不思議な、特異な体験でしたが、

わたしがこうして幸せでいられること。いろんな方々に出会わせて頂いていることに感謝し、その気持ちを表現するのはわたしには演奏を通じて美を追うことでしか出来ないのですけれども、

その感謝が玉置山の神々にも、熊野の神々にも、新宮の皆さまにも、ネパールの皆さまにも、

通じていたら嬉しいな、と思います。

 

 

もっと綺麗な人に

パワーアップするように、がんばります☆

 

 

 

 

 

Priority

その時一瞬一瞬に選択する判断。なにを最も優先するのか、そのバランスは常に変化するものだが、それこそが個々の人間をどうしようもなく表しているものであるだろう。
演奏、そのほか。ありとあらゆることに関して。
うっすら分かっていたことだけれど、素晴らしい人たちの仕事を間近で見せてもらって最近改めて強く確信したことがある。
「方法」に囚われているようでは奇跡はおこらない。
フォームとか、技術だとか、それももちろん必要だし、わたし自身も分析したり工夫するのは大好きだ。けれども、それは後から付随してくるものであって、一番に、というわけではない。
というより、それが最初にくるようでは、奇跡がおこせないのは当然。明らかなのだ。
それよりも先に、自分がもっとも欲しいものをありありとイメージする力、イメージングの方が重要なのだ。肉に引きずりこまれてはならない。肉から抜け出なければならない。
冷蔵庫の中の残り物で何かを作れ、といわれても
さすがの腕利きのシェフでもそれなりに、のものしか作れない。
一般人にとって、さすがシェフの技!だとかなんとか、感激されたとしても、そこを目指しているのではない。
gorgeousでない。奇跡はおきない。
ちょっとしたことじゃなくて、これは決定的な差がある。
簡単なことかもしれないけれど、
時間がかかったなぁ。
 

nepal

 

写真のおじさまは「OKバジ」さんこと、垣見一雅さんとおっしゃいます。

(ネットから勝手に写真をお借りしてるけれど、たぶん叱られないとは思いますが、、、)

 

OKバジさんとは、垣見さんがまだネパール語が話せない頃に、現地の人からお願いごとをされたらどんなことでも断らないで、OK、オーケー、と引き受けてらっしゃったこと、バジはおじいさん、という意味から付いた呼び名だそうです。

 

長い間、雨期以外はネパールにお住みになられていて、現地の人のために学校を建てたり、人生をかけてネパールの人々を支える活動をしていらっしゃいます。

 

わたしが垣見さんの活動を知ったのは、たまたまテレビで見た番組だったのだけれど、

電気も無い村でテント生活。懐中電灯で読書とか手紙とか書いたりしていらっしゃる姿を見て、父と同じような年齢で、凄い人がいらっしゃるなぁ!と感動したのが最初です。

 

 

2015年4月、5月に、ネパール地方で大きな地震がありました。

昨年、祖母や父が暮らしていた新宮の教会でコンサートをした時、そのネパール地震のためのチャリティーを募り、カリタスジャパンというキリスト教会の機構を通じて寄付を送らせてもらいました。

 

寄付というのは送ってしまえば、なかなかどのように使ってもらったのか分かりにくいし、そんな細かいことを気にするのも悪いわよね、と思う自分もいました。

が、わたしは氏育ちがあまりよろしくないので(あはは!!)お金の大切さは重々わかるつもり。

 

今年もまた7月23日に、新宮の教会でコンサートをすることが決まりましたが、

入場料をもらって演奏するよりも、喜捨という形で世界に、社会に参加させていただくことにしました。

 

 

熊本でも地震があったので、そちらにチャリティー募金を送ることも考えたのですが、

ネパールはインドと中国に隣接する場所に在り、なかなか両強国からの圧力を受けて大変な情勢であること。チベットからの亡命者もそこを通り抜ける国であること。貧しい国なので2015年大地震から復興することが困難であること。あと、個人的にヒマラヤ聖者の本を読んで、やはり御縁を感じることから、今年もネパールに寄付金を送ることにしました。

やはり貧しくて困っている人たちにこそ、貴重な、乏しい中からの寄付金を有効に役立てて欲しいな、と思いました。(23日、コンサートにいらして募金して下さる方が、貧しい、という意味ではありません。たくさん下さっても大丈夫です!あはは。どうぞよろしく!!!)

 

 

そこで思い出したのが、垣見さん、OKバジさんの活動です。

 

 

垣見さんを応援する会の方々に連絡を取ってみると、6月、7月にかけてネパールが雨期のため、ちょうど日本に戻っていらっしゃることがわかり、わたしたちが新宮に入る前に、たまたま講演でいらっしゃる和歌山の地で、少しの時間ですが垣見さんと実際お会いし、お話し出来ることになりました。

 

ひとの出会い、ってとても面白いし、一番のエネルギー源だと思う。

楽しみ☆

 

フランスでおきた心痛い出来事もあり、世界がどのようになるのか不安を覚えるけれど、

このような状況であるからこそ、ちいさな善意でも世界に届けたい。閉ざさずに拡げることを心がけたい。

 

 

 

うちは演奏、がんばろう!

 

 

 

 

 


naturally

怒濤のような一週間が過ぎ、

また次のコンサートに向けて準備を始めています。

 

それにしても、世の中には素敵な人っているんだな、と目がハートです。

あはは

 

 

うちももっと善い人間、パワフルな音楽家になれるよう

(それがすべて自然に!)

大きな視野をもって頑張ろう。

 

 

 

Rain

昨日は奈良のお寺で本番でした。
ほんの少しだけバッハも弾いたけれど、
やっぱりお寺にバッハはとても似合うと思う。
そして何度弾いている曲であっても、自分の素が丸裸にされているようで、ただただ楽しめばいいと開きなおりつつも恥じ入るばかりである。


雨は降り止まず、
どうなることかと心配したけれど、
鳥の声や雨音とのコラボレーションに。
そして石仏に反響して還ってくる音に
慰められた。






Start

記事をUPしよう、と思って
旧い記事を消してしまった、、、ショック。
このブログはバックアップされてないらしい。


水戸公演から帰り、
本職の方はやる気に溢れています。

今回のゲストマエストロは、
ヴィオリストのユーリー・バシュメットさんでした。
ロシアの、ソ連を経験した音楽家として、あの時代を生き抜いた、そしてもう最後の巨匠と呼ばれる人なのかもしれない。
素晴らしかったです。

感性が。音楽性が☆☆☆☆☆

そのセンスが何よりも重要で、
後のことは、まあ、どうでもいいっていうか。あははは
みんなそれで納得しちゃうから。


感性とは、壊れやすい繊細なチカラでもなくて、
まるでそれをキープする筋肉を力強くまとっているような印象でした。

といっても、巨匠であってもそれも「本番」ではやはり難しいのだけれども
そこを狙う。そこが大事。


目の前でワンランク、もしくはツーランクほど上の最上級高級車の優美な走りを見せられて、その後を追うのは、ちょっと恥ずかしかったです。
ベストは尽くしたけれども。

音楽的な常識ニュアンスのことばかり指摘されて、
オーケストラ、室内アンサンブルの団体演奏だから、っていう
常識の盲点と甘えを見事に突かれました。


あんな風な世界を目指そう。でなければならない。


Make me comfortable

高野山
高野山

今年は元旦から風邪をひいたのをはじめ、なかなか調子良く進めなかったけれど、
春になって、久しぶりのひととの再会や、新しく、楽しい人たちに会える機会もまた増えてきた。
新しいひととの出会いは、知らなかった世界や本との出会いにつながっていたりする。
世の中には色んなひとがいて、おもしろいひとに出会うことは何よりもの刺激だ。



我が身を振り返っても
人間の主義主張など、身体(姿勢・体調)や食べ物やその他もろもろで、コロリと変化する儚いものだ。
わたしの場合はいかに頭を柔らかくして、モノの観方を刷新していくか、っていうところをわざわざ追い求めている節もある。

怖いことにはじぶんの心と身体の関係でさえ、AがAだとの認識が素直につながっていないことがあるらしい。



じゃあ、いったいなにをどうすればよいのよぅ、、ってところだけれども


結局、
心地良いか、そうではないか、
楽か、そうではないか、
お気に入りか、そうではないか、
美しいか、そうではないか、っていうじぶんの感覚を信用し、進んで良いのだろう。
そこしか残らない。

楽しい、とか面白いとか。好奇心はエネルギーだ。
我儘でいい。薄情でいい。
ほかのなによりも
自分の感性を信じて進むには
じぶんなりにもっと通気性のよい身体と感覚を鍛えて手に入れるべし!!



さて、調子が出ず、小休止、っていう時期も
モノゴトを新鮮に受け取るにはいいデトックスの時間だと思える。

いろんなひとに出会って、刺激を受けることで、
勉強しなはれ、と天からの応援のエネルギーを受け取っている。

わたしもヒトのことを真から応援出来るひとになりたい。










spring

ただいま〜〜

今日、家に帰ってきました。

 

水戸から江戸へ。そして埼玉へ。

今回のツアーはオフの日が多かったので、かなり楽しんできました。

 

なかでも、学生時代以来、久しぶりに行った浅草。

思っていたよりずっと楽しめました。

 

電気ブランを買ったり

浅草寺などぶらぶら。

そして目的は寄席だったのですが、

とっても楽しかったです。

落語は江戸の方が好きかもしれない。歯切れのいいべらんめえ口調がかっこいい。

また行ってみたいです。

 

お金でぶらぶらする時間を買う、っていう大人ならではの楽しみを覚えましたぜ☆

うふふ

 

 

もちろん本職の小澤征爾さんとの「運命」もすごくよかったと思う。(いいのか!?自画自賛)

 

また次回お会いするまで、がんばろうと思います!!

 

 

Cheer up

ツルニチソウ
ツルニチソウ

3月になって、

また面白いヒトたちに出逢わせてもらったり、再会したり。

 

人に会うことは自分を発見することで

オモシロイ。

 

 

昨日、感動した話。

 

話して下さったのはマイク・リッチンズさんというアメリカで30年以上検死官をしていらっしゃる先生。

 

アメリカン・インディアンの居留地であるそこでは、子どもはある程度の年齢になると、教育を受けさせるために集められ、親元から離れた寮みたいな学校に送り込まれるシステムがあった(今でもあるかは知らない)そうで、

あるネイティブの羊飼いの娘は、それをすごく嫌がった。

 

 

「そんなことしたら、わたし、死ねよ」

と、言うものだから、自殺するんじゃないかと大人たちは心配して、

病院にいれて数人で監視、世話をしていたけれども

その羊飼いの娘は、その日の夜中の1時頃に亡くなった。

 

これは大問題なので、マイクさんのところに少女の死因を調べてくれ、と政府から要請がきて解剖したのだけれども、身体にはなんの問題も、病因もなかった。

 

 

と、いう話。

ひとは身体のみで生きているのではない、という一例でマイク先生は話して下さったんだと思うけれど

 

 

そんなに切り離されると死んでしまうくらいに、

地球を、自然を感じて生きている人間っているんだなぁ、と感動した。

そして、その生き方に誇りをもっている。

 

 

人間として

これほどの自由を享受できる幸せ。

 

素晴らしい。

 

crocus

クロッカス
クロッカス

 

オランダにいた頃、新年が明けて、一番早く春の訪れを告げるのがクロッカスの花たちでした。

 

で、久しぶりに、花群を見たいなぁ〜と思って、球根を買って植えてみたんだけれども。

 

 

ほっそぉ〜〜

 

綿棒をすこし大きくした感じ。

 

あはは

咲いてくれたから、よし、としませう。

rain

論湿寒貧
論湿寒貧

 

滋賀県・比叡山延暦寺の冬の座禅体験に参加してきました。

写真は座禅止観をしたときに前にあった風景。

注:野外ではありません。窓ガラス越しです。

 

 

あいにくの雨で

(悪天候だと前日知ったわたしは、参加するのを躊躇ってたほどだけれど)

お坊さまの

「皆さん、残念ながら、雪とはならず。雨でした。たぶん雪景色を期待されていらしたと思うのですが、、」

という御挨拶に、ひゃ〜って吃驚しました。

 

じぶんに甘甘なわたし。あはは

 

 

禅杖でピシッと気合いも入れてもらいました☆

 

たった20分ほどで、これからって時にもう終わってしまったので残念でしたが、興味深かったです。

 

 

fire-festival

昨日、ブログを更新したのですが、手違いで半分文章を消してしまい、、、

もう一度同じ内容を書くのは、もういいや。

 

 

 

日曜に本番が一段落し、

家のお掃除ばかりしています。

なんだかそういう気分。

 

 

今朝、和歌山の新宮から小包が届く。

 

御縁を感じたので、

昨年のふるさと納税は、新宮市に納めたのですが

2月6日に行われた熊野新宮の御燈祭り。その代参松明(ミニサイズ)を新宮市役所の方が送って下さいました。

 そんなオプションサービスが付いてたんです。感激☆

 

 お掃除に拍車がかかります。

 

clear

ブログはなかなか更新していませんが、元気な毎日を過ごしています。

 

1月は大風邪をひいたり、なんだかんだスイッチが入らなくてぐずぐずしていましたが、

立春も過ぎ、新月も過ぎ、ようやく調子が上がってまいりました (*´∀`*)

 

 

お洋服でも、ずーっと同じ服を着ていても全然平気な数年もあれば、

「もう、これ似合わない」と思ったら、その瞬間からタンスの中に着る服がいきなり一枚も見付からないサイクルがあるように、(ありませんか?)

今、「自分」の過渡期なんだと思う。

 

 

 

 

心の中の自我を無くす、じぶんというものをコップに喩えれば、コップに水が満杯に入っていれば、もうそれ以上器に入れようが無いけれど、そのコップの中の水(自我)を減らすほどに、神様から注がれる無限の愛や恵みも入れることが出来るし、それを一杯受け入れる自分に変えていくこと、それが自分を生かす道でないかな、、

 

と教えてもらったとてもいい話。

この話をして下さったのは、プロテスタントの方ですけれども、キリスト教も仏教も、サイマーも、ヨーガも気功も同じだな、と思いました。

 

自分を、フルートとか、竹輪だとか、穴が開いた筒のようなものであると想像して、頭上から降り注がれるエネルギーを通す、流すイメージです、ってサイマー講習会でも言ってはりましたし。

 

 

 

 

そのフルートの、竹輪の部分である「自分」が、磨りガラスのよう、っていうか、傷だらけ、汚れだらけ、っていうのが、最近じぶんに嫌気がさしている最大要因なのですが、

これはもう、じぶん次第。わかってます。苦笑。

 

 

がんばろう。

透明感がほしい。あはは

 

流そう。どんどん流そう!!!

 

 

 

 

 

departure

岸和田でのバッハのパルティータのコンサート、昨日終わりました。

 

このホームページを御覧になって、コンサートを知った、来たよ!っていう懐かしい方も数人いらして、

ホームページ、書いてみるもんだなぁ、と思う。ふふふ

 

遠くまで集まって下さって、ありがとうございました。

 

 

そして、私にとっては、新しい旅に踏み出してた。踏み出したことを確認するようなコンサートでした。

 

昨年から、色んなことがあって、モノの観方がどんどん変化しているけれども

そのスピードに、我ながら、体力は半分ぐらいしか付いていってない気もするけれど(あはは)

たぶん、扉を開けてしまったなら、進むっきゃない。(のか?と躊躇する気持ちはまだくすぶっている。グダグダしたナマケモノのじぶんもいる)

 

演奏前に、高校時代の恩師から『演奏会に行くよ。思い切った演奏を期待してます』という内容のメールをもらった。

思い切った、って、先生、旧いなぁ。もう、自分の感情、気持ちとは別の所に演奏はあるんやで・・と一瞬考えたけれども、

「思い切る」という言葉は、思いを、断ち切る、ということか。

なるほど、深い言葉だな、と思い至った。

 

個人の情や思い、を超えた所に、芸術の美は存在する。

 

 

凄いな、素敵だな、とわたしがおもう人生の達人は、皆、共通して、エネルギーが上から下へ、下から上へ、流すパワーが半端ない。

 

 

世の中には「答えは無い」と一般には言うけれども、

『答えはあるに違いない』というのが、わたしの追い求めている答えだと思う。

 

『正解』というものに近付いたとき、

果たしてそれは自分の中でどう響き、他者にはどう伝わるのか。

絶対、力強く響くと思う。

私を動かしているのは、それ、やってみたい。っていう好奇心だけだと思う。

 

 

Easy,easy.

追い詰めずに、気楽にいきます (*´∀`*)

 

 

 

 

 

最近、信仰という面ではなく、心というものの有り様を追究した分野、という意味で、空海さんや仏教の本を読んだりしている。

バッハを弾く時に、何を考えるか。彼は何が面白いと思って世の中を観てたのか、というのが、ずーっと疑問だった。わからん、と学生時代、最初につまづいたのが、バッハだった。

真摯に楽譜に向き合うしか、その答えの糸口は見付かりそうもなく思えた。音程など音の色彩、現象で追っていたのだけれども。

 

昨年サイマーさんの講習の時には、拒否反応を起こした陀羅尼、真言というものを、空海さんが解説している文章を読んで、かすかに閃いたことがある。

 

まさに、同じ心境だったんだろうな、と。

 

この世、あの世という言い方はあれども

バッハが観ている世界も、また「色」のなせるものなのだから、その違いはあるまい。

「全能なる神」がお創りになった、この世の美しさを、音楽の形を借りて表現しているのだと思う。

数字や調性、いろんなものに意味を持たせ、Soli Deo Gloria(ソリ デオ グローリア)

 

 

#Soli Deo Gloria

神に栄光を帰す、という言葉を、バッハは自分のサインのかわりによく楽譜に記したそうです。昨日Uさんに教えて頂きました。

 

 

 

そんなの当たり前じゃん!って周知の事実なのかもしれないけれど

やっとここまでわかった、ってちょっと納得してます。

 

 

何気ない風景を見ても、観る人が観れば、「全てに神さまの恩恵の光が降り注いで輝いている」って感動の眼で感じられるように、

バッハの楽譜。並ぶ音型の中に、数えきれないほどの美しさが隠れているのだけれども。

あとは、それを自分がどこまで捉えられるか、感受性と、それをおとす技術と。

もしつまらない、って皆が思うんであれば、それはわたしの力不足なだけだ。

 

 

素面ながら、酔ってる感じだな。ふふふ 得意。

 

ああああ

道のりは遠いな。

 

 

 

 

 

 

Hunch

直感、もしくは直観というものが的を射ているのか、
その直感が真実を射抜く精度を磨くにはどうすればよいのだろう、というのが
ここしばらくの自分のテーマの一つだったりする。


長く一つの道に携わっていれば、
経験値がモノをいうだろう、と考えられるかもしれないが、
その長い経験や知識が逆に、自分のなかでの既成観念の壁、とはいわずとも、膜を張っているようなツマリ現象の原因だったりするから、厄介なものだ。


埃は日々、溜まっていく。垢とはそのようなものだろう。



いろいろ実験はしているけれども、
じぶんの感じでは、
それは精神だけでなく、身体の通気性にも直結しているということだ。


頭脳だけでも、ハートだけでも、
その埃の重さ、その「アイデア」が正解なのか、そうでないのかは判断しかねる。



身体はより、通気性がよく(要は身体の調子が良くなったり、見た目スタイルが美しくなったり、本来の人間の美しい姿へ近づくこと)なり、
精神的というか、頭や心では、色々考えたりする余計な時間が無くなり、意思が行為に直結している状態。

未だ探りながらだけれども、
たぶん、それがうまく焦点が当たって機能している感じじゃないかしら。


身体だけでも、頭や心だけでも、その直感(直観)は見つけられない。

閃きの重さは、小鳥の羽毛のような軽さであり、
日々我が身に降り積もる埃の重さといい勝負なのだ。



人が道を踏み外すのも、
輝きを増すのも、
それ自体には悪意も善意もない、羽毛のような軽さがキッカケになったりするのだろう。



そのアヤウサに気付かないのは
「常識」というものにかなりオカサレテ
感性に疑問符。





Wave

11月にMr.lakatosに会って、弓の持ち方(右手)を直し始めたら、
あれ、なんだか、もしかして左手の親指も、こうやって考えたほうが良いのかも、と直感するところがあった。
そして、いろいろ阿頼耶識に従って遊んでいるうちに、力を発散する際のエネルギーの発信元の位置が、より自分自身に近くなったような気がする。
フォームもだけれど、ここ半年で感じ方、考え方も変化しているのも多大に影響ある。
ま、まずいな。
どうしよう、、、と口を開けばこればかり、のここ数日でした。
あまりに違い過ぎる。
その経過中には、CD用のバッハの録音もあったのだけれど、
やはり、予定が差し迫っていない余裕のある時間に、人間は閃いたり、掴んだりするらしく
今月ラジオ放送に少し出ておしゃべりするから、と、その資料としてこの間録音したばかりのホヤホヤのバッハ音源を少しだけもらったのだけれど、
「今」の自分が感じている世界と、タイム差がある。
ほんの一ヶ月も経っていないのに、全然違うものが答えに近いように断然感じる。
録音とは、時を封じ込めるものだから、
過去の自分を今のワタシと比べたら、その違いがあるのは当然だし、
欲はキリが無いとは分かっていても、そこそこ自分の理想に近づいてきた!と思うからこそ、思い切って収録したものなのに。
 
かなりのタイムラグが聞き取れる。
 
 
答えに近付いたと思っても、それは錯覚だった。
げーっ、ムダが多い。ボーッと焦点が合ってない。
もう、もう!どうするねんやろぅ、、とほとほと自分に嫌気がさしてました。
まるでやる気なし。
 
 
 
で、空海さんの書いた本にハマっていたけれど、
(お坊さんに教えてもらった『秘蔵宝鑰』)
ざっと読んだだけだけれど、これは、これこそ!最終段階なんて凡夫には絶対ムリムリ、、とおとなしく音楽の世界に戻ることにしました。
 
あはは
 
いい、いい。人間の世界でがんばろう〜〜
 
 
 
今月末にもバッハの演奏会はあるので、
「Brand-New 慎子」として(毎回そうなんだけれど)人前に立つには、出来るところまででもつめてみるしかない。
 
じぶんの欠点が聞こえたら、後は直すだけ。聞こえへん、っていうのが問題やねん。
って、生徒さんには良く励まして言ってるんだけど、
道のりが、遠い。遠過ぎる。
全部やり直し。
 
しかし、これほど強烈にタイムラグが聞き取れる、というのは何かのチャンスであると思う。
 
(もう良くなってるのか、はたまた個性の顕れとしてのただの判断かは、私にはもう分かりませんけれど。)
 
 
こういう職業だ、というか。
諦めよう。
一生、この繰り返しなんでしょうね。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
後記:
もういい、となにかを諦めてから、かなり調子が出ない。
不垢不浄 不増不減
人一人。痛くも痒くもないだろうけれど、
もっと通気性の良い人間を目指そう☆
 
 
 

A happy new year☆

あけましておめでとうございます。

本年も素敵な一年になりますように。

 

年明けは三重の青蓮寺さんで1時頃からバッハを弾かせてもらいました。

青蓮寺さんは、名張の青蓮寺湖のほとりにあるのですけれど、

「山寺の、和尚さんが♪」という歌に出てきそうな、本当に田舎の、山寺です (*´∀`*)

ちらっと雲の間から覗いた夜空に、凄い数の星、星座たち☆

あんなに綺麗に見えたら、毎晩ロマンチックだろうな〜〜

 

 

昨年の、わたしの個人的なヒーローは(例によってのマイブーム)高野山1200年という記念年でもあって、「空海さん」でした。このブームはもうちょっと続きそうです。

青蓮寺も空海が開いたという話が残っていて、弾いた本堂の向かいに空海さんの御堂もあったので、とても嬉しかったです。

 

バッハとかけて般若心経と解く。その心は?

「どちらも宇宙の真理につながっている」

いや、うち、本気で答えてますから!!

と、年末、お坊さん(青蓮寺の、ではなく)との飲み会で多いに盛り上がったのですけれど、

これはお坊さんが相手じゃないと、話せない、面白くない会話だなぁ、と

そのシチュエーションに笑ってしまいました。

わたしには質問したい時に出来る「先生」が、まわりに沢山いてくれるので恵まれています。

 

 

 

さてさて、

帰ってきてから、風邪で寝込んでいました。

昨年はなんだか寝込む心の余裕も無かったような気がするのですけれど、

風邪をひいて、スッキリしたように思います。

 

 

自分の心地よいと思う「感性」をより進化させられる一年にしたいです。

 

 

 

 

brightness

神倉神社より新宮の海
神倉神社より新宮の海

12月も25日を過ぎると、次はいよいよお正月、と街の様子も一変しますね

来年の元旦は、三重のお寺で年明け奉納演奏をさせて頂くので
今年は年納めがあってないような、へんな感じです。
今年は本当に、いろんな!!!方々に出逢わせて頂きました。
12月にはいっても、その出会いのペースは落ちることがなく、
キラキラした個性、
子供たちから大人、音楽家も、そうでない職種の方々も。
そういう、生命というか人間の本質の輝きの瞬間に立ち会わせてもらって、
もしくは徳の穏やかな光というか、その温かさに改めて感じ入ったり、
こうやって色々に刺激を受けることで
わたしは天から与えてもらってるんだな、がんばれ、って応援してもらってるんだな、と
思うことにしています。
自分自身を見捨てない、って
なかなか、本気で取り組んだら困難なことだと
自分の曖昧さに気付くほど、道を遠くに感じる。
自分を甘やかさない、
って、あまあまのわたしにとっては、かなり難しい行。
それも、調子が良い時だけでなく、常に、ってところが。。多汗。
でも
この世に生きても、あの世に生きることになっても
結局自分自身からは逃れられない、
己と付き合っていくしかないのならば、
やるべき事は自然と決まっている。
ダメなわたしならば、ダメなわたしに付き合って、なんとか前進するしかないみたい。
 
本気で好きなことに 
ただそのまま飛び込むだけで、問題はすべて消滅するのかも。きっとそう。
自分の覚悟の決め方次第。
 
そんなことにも気付かせてもらったいい一年でした。
 
 

individuality

倉吉未来中心小ホール
倉吉未来中心小ホール

昨日の夜中に鳥取・倉吉から帰ってきました。

わたしは弾いて終わりだけれど、その演奏をずっとヘッドフォンでチェックして記録するマネージャー兼ディレクターさんと、トーンマイスター(技術さん)さんは、機材撤収のあと、長距離の運転もあったので、かなり大変だったと思います。

お疲れさま&感謝です。

 

 

普段、簡易の録音機材でリハーサルを撮って、ちょこっとサウンドチェックをすることはあっても、

じぶんの演奏を真正面から、他人から聴いたらどう聴こえるか、という立場になってみたりして、聴くことは珍しいので、かなり発見があった2日間でした。

 

 

うちって相当いがんでる。。

 

 

俗にいう

「正確な」テンポ、リズム、音程(Hz)を外側から「美しく」整えるよりも

中側、内側から音楽を覗いて、感じて、歩いているので

自分の感じ方で道がくねくねしてる。

画家の、例えばゴッホの風景画がぐねってゆがんでいるように。でも彼の眼には、世界がそう見えていた、らしい。まさにそう。

 

楽器の倍音が鳴っていて、そこは生理的に身体が感じるから、と引き伸ばしたりするところもある。この色がここに変わるのがいいんじゃん、っていう時もある。

なにかしらの理由があって、なんだけれど

 

相当うち、自己本位で生きている。

 

って、衝撃。(笑えない)

 

 

 

人は自分本位にしか生きられないものだ、とは割り切ってはいるけれど。

 

こう見えるんだから、こうしか出来ないんだから、仕方ないじゃん、、、とか

じぶんのなかで、昨夜からぶつぶつ葛藤に入ってます。

 

 

 

現代は録音技術も進み、貼ったり切ったり、つなげたり、差し替えたり、っていうことが簡単に出来るみたいだけれども、

わたしは昔のLP録音とか、ああいう音源が、音楽が好きなので

出来るだけ手を加えずに使えるように

なかなかにロングショットばかりを撮ってもらいました。

 

 

体力にも集中力にも、限界っていうのはあるけれども

録音は不可抗力(観客という聴き手のエネルギーももらえない分、それによるちょっとした雑音などのアクシデント)も無い代わりに

自分との闘いが全て。

 

最後、シャコンヌを弾いた時は、そのドツボにハマりかけたけれど

ディレクターからの『お客がいると思ってコンサートみたいに弾いて』という単純なアドヴァイスで、

問題が消えました。ニッコリ。

 

今回はこれがわたしの限界だと思う。

 

 

 

兎に角。

終わった〜〜〜

 

長い宿題が、とりあえず終わりました。

 

 

 

angel

諏訪大社秋宮 白松
諏訪大社秋宮 白松

さあ、とうとう逃げられないぞ、、っていうのがここのところの心境です。

 

バッハの録音日が迫ってきました。

 

普通のコンサートは、それはそれで毎度一回勝負の怖さがあるけれども、

録音の怖さはまた違う気がします。

 

ミスをしないか、とかいうことじゃなくて、

現時点での自分の世界の見方が、自分の大きさも弱さも、全て記録されてしまうということで。

 

たった数ヶ月前の録音を聴いても、

「じぶんってアホやなぁ。なに考えてたんやろ!」って腹立たしく思え、

過去を振り返る作業とは、この繰り返しでしかない、と経験上、重々分かっているのに、

それでも挑戦する愚かしさ。

 

 

でも、きっと人生のこの時期に、必要な巡り合わせなんだと思う。

これまでの自分の甘さに向かい合っています。

 

 

先週に終えた本番の作品のメロディが、未だに頭の中で流れることが続いています。

相当、本当に素晴らしい演奏だったと思う。

(ポール・メイエさんというクラリネットのスーパースターと、アンドレアス・シュタイアーさんというピアノの巨匠)


そして彼らに共通するのは、普段は本当に普通のひと。むちゃくちゃいい人だ、というところ。

(まあ、欠点が見えるほど、長時間一緒に過ごしたわけではないけれど、それにしても!!ってくらいに)

 

ああじゃなければ、あんな音楽は弾かれへんと思う、っていう先輩の言葉に深く納得です。

 

lakatosさんに会ったときもそう思ったけれど

本当に音楽の美しさ、輝きを、空間に流すだけ、っていうか

人間的にも、音楽も「流す」力強さに、その輝きに圧倒的な光を感じました。

まさにスター☆

 

ふふふ

 

 

技術や思考は、美を捉えるためだけに使うもの。

(彼らのその技術は、それだけで勝負してもふつうの人間を超えたものですが)

音楽への愛以外に使用しない。

 

メイエさんたちが、弾いてくれたシューマンのファンタジーシュトゥックは、信じられないほど美しかったです。舞台進行上の都合で、わたしのすぐ真横っていうか、耳元で弾いてくれたんだけれど、きっと一生忘れないだろうな。。

それも、特別なことは、なにもしないのに、圧倒的に美しいっていう。

 

 

素晴らしい音楽家は、天使だっていう最近のわたしの説。

天に使える、というか、天から使わされた人。

 

 

わたしは音楽家というよりは、「人間」にとても興味があるのだけれど

こんなスーパーな人に間近に会えるのは、音楽をしているから。

本当にすべてに感謝して、

自分もあんな人間の域に、すこしでも近付けるように。あちらを向いて進みたい。

 

 

picture

 

もう一目で分かりはる、と思うのですけれど、

ホームページの写真を差し替えました。

 

10月のいずみホールでのコンサートがあった時に

写真家の村川荘兵衛さんに撮って頂きました。

 

村川荘兵衛ホームページ

 

さすがプロフェッショナルのお仕事!

 

って、当たり前なんですけれど、

あはは

動きがあって、

わたしがいる。

村川さんを通してのわたし。

とっても気に入っています。


 

村川さんは、Topページでわたしが着用している黒いドレス。

このドレスをデザインなさった黒川洋子さんに紹介して頂きました。

 

人の輪が、どんどんつながっていきます☆

 

 

リハーサル時からびっちり付き合って頂いて、真剣に弾くところを撮ってもらったので

自分がこんな顔して弾いているのか、とか

色々発見です。

 

最近、裸足で弾くことが多いのですが、Topページに載せた写真は

なんだか棟方志功の版画に出てくる女性みたいで

いい感じ。自画自賛。

 

 

 

でも、なんか、もっと手入れもせねばなるまい(自分に)

 

 

 

miracle bow

玉置山より
玉置山より

先日、新宮でのコンサートを終えた次の日は、
いとこの案内で前から興味があった玉置山、玉置神社に行ってきました。


なんでもちゃんと御縁がないと、玉置神社には願っても参拝出来ない、という伝説が囁かれているそうな。


無事、到着して、
玉置神社の入り口看板を読んでびっくり。


大和なる玉置の宮の弓神楽(ゆみかぐら) 弦音(つるおと)すれば悪魔退散

と詠まれる、
なんてヴァイオリンにぴったりの神社!!!



宮司さんによると、弓矢を射るのほうの弓、ブーンっていう弦音、というのが由来らしいですけれど、
それにしても、こんなにぴったりなことも珍しいので、
弓神楽の護符を買って、大きなのはアトリエに飾り、携帯用のは楽器ケースの中に入れていました。



その御加護大アリ☆


この間、ロビー・ラカトシュに会った時、
夜中の3時くらいから、どうやって弓を持つか、談義になり、
直々に彼のやり方を教えてもらいました。


まあ、彼と、世界中であともう一人いる、上手っ!っていう尊敬するヴァイオリニストに言われなければ、(要するに本当に自分が圧倒的にボーイングに感服していなければ)
絶対やってみようというか、言う事聞こう、なんて気持ちは湧いてこないだろうけれど、
試してみてます。


今月の中頃に、延期になっていたバッハのパルティータを録音する予定を入れているのですが、


このタイミングで言われるのも何かの縁に違いない、と。
何せ、世界から降ってきたような出来事だし。


って、
1センチ弓を持つ場所を変えるだけでも、
身長が10センチ伸びたプロレスラーの技の威力が増すように、
まあ全然バランスも何もかも違うんですけれど、、^ ^;
あはは
間に合うかな。


変えよう、と思ったのは
自分の直感が、そちらが正しいかも、って何か感じるところがあるからだし。


ブログ書いてる場合じゃない⁈


あははは
がんばります!







Go straight!

日立の海
日立の海
昨夜、旅から戻ってきました。
寄り道とツアーと寄り道を含め、9日間でしたが、
あまりの充実、というか、途中に信じられないような超特大の出会いがあって、
他の出来事は呑まれてしまった、飛んでいってしまったような気も若干。

水戸でうなぎやあん肝、美味しいお酒もたくさん頂いて
途中には温泉にも行きました。
今回の水戸室内管弦楽団はモーツアルトの作品の中でも、極上のプログラムでしたし。楽しかった。



さて、最近、わたしは色んな人に話しかける率、話しかけられ率ともに、
ぐんぐんアップしているのですが、
今回の旅はまさに全開。


お喋りが好き、っていうの、プロフィールに書いても良いくらい、だと思います。
Coffeeだけでも、アルコールでも、気の合う人たちとは延々と話していられる。ふふふ




さて、旅の途中で誰に出会ったのか。


それは











with Mr.roby lakatos
with Mr.roby lakatos
会う予定があったのではなく。

名古屋のコンサートが終わって、他のメンバーの皆は東京に帰ってしまったので、一人で美味しい名古屋コーチンを食べてホテルに帰ってきたところ、
特徴あるお髭のおじさんを発見☆


絶対にロビー・ラカトシュだ!と思ったので。
普通に、ちょっと好き、ってぐらいの音楽家になら、声はかけないんだけれど、
ラカトシュさんは特別。

知らない方のために。ロビーさんはジプシーヴァイオリン、音楽家としてとても最上級の方です。
野球で喩えるならメジャーリーガーのそうだな、ジーターに偶然会う、みたいな。


で、初対面ですが、トントンと肩をたたいて、
私もヴァイオリニストなんだけれど、って話しかけて、握手してもらいました。




話はそこで終わらずに、、、、







彼のマネージャーさん、ピアニストさんも含めて早朝まで大盛り上がり。


長年、疑問だった彼の凄技も直接教えてもらい、色んな話を聞きました。
もう最高☆☆☆


音楽家にも色んな考え方、生き方をする人が溢れているから、
特に人が集まる場に出ると、
時々自分の選択でいいのか、そうじゃないのか、不安になることもあるけれど。


ロビーさんは
彼の音楽そのまま、
とても人間味が溢れた素晴らしい人で、
彼みたいな人こそが本物の音楽家だな、ととても感動しました。


こんな人、いるんだなぁ。
よかった。

ロビーさんが私と友人に言ってくれたように、真っ直ぐに進んで行こうと思う。


偶然の出会いと呼んでしまうには
信じられないぐらいのビッグ プレゼントをもらいました。


ありがとう〜神さま☆








Raven

瀞峡
瀞峡
からすの行水、って言葉は聞くけれど、
実際からすの水浴びを見たのは初めて。


案外念入りに水浴びしてはりました。

バシャバシャバシャバシャ、って可愛い。

自分の中では、八咫烏だった、ってことにしてあります。ふふふ






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zero

神倉神社
神倉神社


熊野・新宮でのコンサートが終わりました。


このHPにブログを書きはじめた頃から特に、

不思議にいろんな人に出逢わせてもらう機会に次々恵まれて、

そして同時に、

わたしの人生で一番関わりがある人、母を失う、という体験も重なりました。


と、ここに書きつつ、

母はこの世から亡くなったけれど、関係が変化しただけで、決して母を失ったわけじゃないんだなぁ、と思う。



この数ヶ月でモノの考え方、感じ方がまるで変わったことを実感しています。




音楽は心ととても密接にあるものだとは、分かっていたつもりだけれど

母が亡くなってしばらくして、

大勢で弾く音楽はともかく、

独りで音楽と向き合う自分の音が、なんて寂しい音なんだ、どうしてこんなに心をえぐるというか、さらけだす辛い職業なんだ。こんなので以後、音楽活動を続けていけるのか、と正直不安に思うこともあった。



しかし、サイトウキネンで世界中から集まってくる音楽仲間の姿や、大先輩、素晴らしい音楽家の後ろ姿を間近に見させてもらったりして、

音楽に個人的感情をのせることは、人間だから仕方のないこととはいえ、それは全く不必要なこと、ナンセンスで、

美や芸術はそういう個人の感情の重さから完全に離れたところに存在するからこそ、

その美しさに大勢の人の心が救われる要因がある、と思う。




数ヶ月経った頃に夢を見て、

そこは藤色よりも、もう少し水色がかった、ただ空間だけが広がっていて、

何の音もせず、匂いもしなかった。

姿はないけれども、わたしがいる。

それも自分の中に信じられないほど「不安」というものが一切無い「平安」な状態で(普段不安を抱えて生きている自覚はないけれど、あれほど安らかな心でいられたことは無い)

その薄紫の世界の中で、わたしはどこかに行こうと念じれば、すぐに移動が出来たし、自分の存在を大きくすることもできれば、小さくすることも可能で、完全な「自由」だった。


「平安」と「自由」というものは、背中合わせに存在するものだ。



きっと、母が行った場所は、そういう所なんだと思う。


ならば、「死」というものに冷たいとか、暗いとか、重いイメージをつけてしまった要因は、残されてこの世に生きている私たちの寂しさや命が消える時の苦闘を目撃したこと、骨になったり、姿が変わっていく様子による勝手な印象であって、

「鎮魂」とよくひとは言うけれども、

鎮めるべきは、生きている我々の、ざわつく魂の方であり、

わたしは生きている人のために、楽器を弾こう、音楽をしようと思った。



ここまでが、今回、新宮への、母を偲ぶコンサートに出掛ける前の、わたしの考えていたことだけれども、

旅に出て、いろんな人に会って、またいろんな事を話し、

縁のある特別な教会で弾くということで、直感もあった。



わたしの音楽を聴いていたのは、生きている人ばかりじゃない。

この世から亡くなった人も、魂が消えてしまったのではなくて、

その場にいた皆がそれぞれに思い出していたからかもしれないけれど、集っているイメージが演奏中降りてきた。



あと、

これは一世一代のいたずら、というか、「お伺い」をたててみたのだけれど(ふふふ)

弾いているのは、生きている「わたし」なんだと実感した。

あちら側の人が、(あまりにイタコちっくに)わたしになにかを弾かせているわけではない。演奏には確かにそういう面もある。

もちろん、わたしの中に彼方と通じる道はあるけれども。

彼方側のひとたちも、黙って聴いてくれているのを感じて、そうかぁ!と自分のエネルギーの向け方について閃きをもつことができた。

生きても死んでも、「わたし」は「わたし」なんだ。

(当たり前のことを何度も確認している)



自分の魂のエネルギー、パワーをもっと信じて、育てていこうと思う。


寂しいけれど、あまり寂しくない。








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feminine

丹生都比売神社
丹生都比売神社

 

 

高野山の帰りに寄り道した丹生都比売神社(にうつひめじんじゃ)。

柔らかで清らかで、でもどこか色っぽくて

ああ、女性の神さまの神殿なんだなぁ、と感じました。

 

 

かなりの山の中に在るので

訪れる人もそんなに多くはないみたいですけれど、

とっても素敵でした。

 

今年に入って、色んな神社に御挨拶する機会が多いですが

それぞれに雰囲気が違って、その土地と神さまたちの個性かしら。

 

 

思い出すだけで優しい気分になれる丹生都比売神社。

 

 

日本って素晴らしい国だなぁ。

 

 

 

soul's journey

金剛三昧院
金剛三昧院

5月か6月からだったか、長い間楽しみにしていた講座のため、週末は高野山に行ってきました。

今年は高野山開創1200年という記念の年にもあたるので、大勢の人が大師様に会いにいらっしゃるそうです。

 

わたしが会いに行ったのは、もちろん空海さんと、そして今、インドの聖人とアメリカを始め世界で人気があるサイマーさんという、女性のグルです。サイババからサイ(サイババ)のマー(お母さん)という名前を授かり、世界にその愛を届ける使命をもって活動していらっしゃいます。

面白い、凄い人がいるから是非会ってみて、と薦めて頂いたのがご縁です。

おもしろい、とわたしが思う人から薦められる人は間違いなくおもしろいので、会っておこう!っていうのが持論。

 

とてもパワフルで魅力的な存在感を纏われている方で、声も素敵です。

わたしはダルシャン(祝福を与える)でも楽器を連れて行ったので、

「あなたはミュージシャンなのね・・音楽は天の声でもあるのよ・・・」としばらくお話をされたので声はたっぷり聴けました☆

 

 

そして。

魂の旅、というメインの講座にも参加させて頂いたけれども、

わたしは、自分の道は、わたしの魂が進むべき道は、自分自身で探りながら見つけていくしかないな、

と深く感じて、会場を出てきました。

 

優しいまなざしでの世界の観方で、共感する部分も大好きなところも多いけれども

それが100パーセントの信仰の対象にはなり得ない。

マントラを、音を使ってなんとかしよう、とするところでちょっとムリだな、と感じた。

そういう直感には従おう。

 

わたしには音楽という(楽譜を通じて)そこが全ての正解、という全幅の信頼を置ける世界をもう持っているから、

ほかに求めている答えは、そこを補助するものでもあるのだけれど。

「物事に近道はなし」

その言葉がキーワードのように巡る。

自分で思ってた以上にわたしは音楽家なんだな、と今更確認。

わたしは何を求めているのだろう。



自分の考えや心の凝ったところに気付いてはほぐし、気づいては解し、より光を通過させる人間に、自分が自分を育て上げるしか無いんだな。

 

自分が未熟で、

素直じゃない、だけなのかも、考え過ぎてるだけかもしれないけれど。

 

でも、もし、サイマーさんが仰ることが本当ならば、わたしの感じていることが正解なら、同じ場所につながってるはずなんです。心配無し。

 

 

これからも

どんどん面白い人には会いにいこうと思う!!!

 


 

 

     会場には綺麗な空気を纏った男性が多かったです。高野山のお坊さまの中にもハッと綺麗な人はさすがに多い。いらっしゃるところにはいらっしゃるんだな、と。綺麗な女性は、街中でもお見かけすることはありますが。ああいう人を目指したいですね。

 

 

 

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humanity

どんな人もヴァイオリンの名人に育てます、と大きな看板を出しているわけではないけれど、

縁あってわたしのところに習いにくる人たちがいる。

子どもが多いけれども、年齢は問題ではない。


教える、っていう時間、わたしは何の作業をしているのだ?と振り返れば、

結局はその(生徒さん自身の)人間性に向き合うことほかならない、とますます。つくづく思う。

 

その人自身の世界の観方。

美しい理想をイマジネーションして

現実の自分が出す音、世界を冷静に顧み、その両極の距離、ギャップを縮めていく。

そしてその創り出した世界を、聴いている人たちと共有しなくてはならない。

 

技術はそのためにある。

 

 

ひとりひとり得意分野と苦手なこと、みたいなパターンがあって

自分だけのことでは思いもつかなかった問題にあたったりして、

なかなか興味深い。


 

美しい世界?、と想いもかけない難問を前に考え込む個性もあれば、

そこはnaturalでも、自分を冷静な眼、客観的立場で眺めるのが課題、っていう人もいる。

 

だいたい自分をありのまま観る、ってことが一番難しい。

でもそういうのに長けた才能ある人もいるし、音楽家は色んなところで色んな個性の人と出会えるから面白い。

 


ものを、世界を本当に観るには

呼吸が詰まっていれば小さくしか見えないし、

身体の状態と心の自由さというのはリンクしているので、

身体的にも滞るところが無いようにつなげていかなくてはならない。

 

その身体的トレーニング方法、メソードを教わりたい、って人もいる。


 

先生といっても、

その問題を解く、乗り越えていくのは、その生徒さん自身であって

わたしに出来るのは、その解決法を案内しながら、刺激していくぐらいだ。

耳を開く手助けしか出来ない。

 

謎を探求するのは結構好きな性質なので、程よい立場で楽しませてもらっているけれど。

(自分の問題だったら、決して楽しむ余裕はない。)

 

 

 

 将来、皆が皆、音楽家になるとは思わないけれど

きらきらとした人間性を持つ個性に出会えることが多い。

 

 

今、ヴァイオリン、上手い、下手ではなくて、

その輝きに負けないくらいの人間でありたい、と思う。

 

実はわたしが長ーいレッスン、受けてるのかもしれない。

 

 


 

 

 

Air

自戒も込めて書くけれども、
自分はそんなに悪人ではない、と思っている人が為す中途半端な仕事ほど、世の中を曇らせるものはない。
撒き散らしているのは善や美ではなくて、毒ってことにもなり得る。
そういうところで滞っているのが、ほとんどの現実社会、現象ってものかもしれない。

特に美しいものに携わろうとするならば、それは全くのナンセンスだ。
目指すのはそこじゃない、っていうお手本を、良いのも悪いのも今年の夏はたくさん見せてもらったから。


往々にして、重いものに引っぱられそうになる。


考えること。思い、すら、美しいもの、美にとっては不必要なものだ。
思う、思ってしまうのは人間であるから仕方がない事とはいえ、そこに長く引き摺られてはいけない。

ただ通過させるもの。

Mozartは、その循環させるっていう点においても大天才だったし、だからこそあんな世界を見られたんだと思う。
やっぱり超人。


要らないものは自分の中から排泄、排出して、新しい世界に飛びこもう。


油断すると、眠り虫になりがちだから。あぶないよー。気をつけて、わたし。





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Mushrooms

モップみたいにびちょびちょの羊
モップみたいにびちょびちょの羊
サイトウキネンの帰りには、友だちの田舎のおうちに寄ってきました。

台風で大変な被害を受けた場所もあるので黙っていましたが。。
被害にあった皆さんが早く元の生活に戻れますように。


四方を山に囲まれているはずなんだけれど、小雨が降ったり雲がかかって景色がよく見えなかった時に教えてもらったいい話。
そういう時のような霧で白くなった山では、キノコがよく育っているそうな。まさに只今発生中。
あと、不思議と雷が多いと、キノコが大量発生するらしい。関連は不明だけれど、そうなんですって。



だから、白い霧だらけの景色を見ても、「キノコが育ってる、育ってる」と想ったら、なんだか嬉しく、楽しくなってきました。
スーパーマリオのテーマを口ずさんだりして。
曇りの日の楽しみが増えました。



台風と予報が出た日から、どんどん風が雲を吹き飛ばしてくれて






どんな人の上にも必ず輝く青い空は広がっている。











輝くキノコ
輝くキノコ
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Maestro

蓮の花
蓮の花

夏が終わりました。

松本でのサイトウキネン公演は昨日で終わり。


いろんなことが思い出されるけれど、
秀逸なコンサートも今年は多かったように感じます。




特に
ファビオ ルイージさんが振ったマーラーの第5番のシンフォニーと、
昨日の小澤征爾さん指揮のベートーヴェン第2番。


ああ、楽しかったなぁーと余韻がとれないです。



もちろん、音楽家は毎回、Bestな演奏を目指して本番に向かうものだけれど、こんなにバチッ、と決めるべき時に決めるということが、どれほど難しいことなのかということも、皆、それぞれの経験を踏んで身に染みてわかっている。だからそれが稀であるし、その場に居た幸せも感じています。



ああいう、充実した本番、時間を体験してしまうから、この世界がやみつきに。音楽家を辞めることは出来なくなるんだな。




小澤征爾さんのバースデーコンサート時のマルタ アルゲリッチさんも素晴らしかったけれど、
maestroたちが創る音楽はどこを切り取っても生きていて、美しく、
仕事をするならこうじゃなきゃいけないな、と。

目指す世界を切り拓く背中。
仕事が出来る人は、働いている姿が一番格好良く、美しいです。


料理でも音楽でも、どの世界でも同じだと思う。
つまるところ人間性、人が出るし、
自由を摑むために。そこを目指さないのは甘えでしかない。


わたしなりに、力強く進もう。











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Wish

わさび農園
わさび農園
3ヶ月ほど、お肉を全く食べない、という実験をしていました。
魚はOK。鶏も豚も牛も食べないという。

鶏のから揚げが大好物なので、もっと早くに食べたくなるかな、と思っていたのですが、
自分でも意外なほど食べたい欲が湧いてこなかった。
食べたくなったら、いつでもヤメテルのを、止めようとは思っていました。


一昨日、なんか、また食べてみるかな、と
いきなりの牛のステーキを食べてみました☆

解禁。





生きるってことは、小さな欲の積み重ねから出来ているんだな。by 慎子


綺麗になりたいな、とか。もうちょっと美味しいもの食べたい、とか。
そこをもっとこうして、と生き生きと音楽を造る素敵なマエストロに触発されたのかもしれない。



まだ、今のわたしには、
その欲を否定したり拒否することは、生命がただ続いている、っていう意味のではない、
生きること。その喜び、みたいなものを摘み取らないことでしかない。のかもしれません。



まだまだ、でした。

実験の中間報告。








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Love is art. Struggle is beauty

碌山美術館に行きました。
ずっと気になっていた場所。
安曇野にあります。


祈る人
祈る人
knock、knock
knock、knock
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Blue sky

安曇野
安曇野
今年も松本に来ています。
空の青さが沁みます。


時間によって変わっていく空の色、見飽きません。
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Light

大人になると、もう嫌々ながら学校に行くとか、勉強しなくちゃならない、とか。
そんな理不尽な行から解放されて、「自由」を謳歌しているはずなのに、
自分が、そうなりたい理想の自分というものを想ってみて、と言われた時に、
その距離。理想の自分というものをただ思い描いてみることからさえも、遠く離れていたんだな、とハッと新鮮に思った。





風の谷のナウシカという宮崎駿さんの漫画で、
最終巻だったか、
巨漢の兄弟がこの世は(生命は、だったかな)光だ、と言うのを遮って、
ナウシカが「否!闇の中の瞬く光だ!」
と強く主張する、この物語のクライマックスだと思われるシーンがある。

学生時代に夢中だった本でかなり影響されました。


わたしは今、敢えて言いたい。
この世はやはり光で出来ている。この世は光だ。
闇は人の心が自分で生み出したもの、幻想でしかない。


そんなー、理想とする人間になんてなれない、なれるはずがない、と諦めたりするのも、
人の心が生み出すただの不純物でしかない。



こういうことを感じたり、追い求めている人が、
世の中には本当にいるんです。
それを拡げようと善意と献身というか、人生をささげている人も実際にいる。


現実にお会いしたり、話を聞いたからわたしもここまで強く断言できるのだけれど。

何かしらメッセージが、ヒントが。
いつも届きます。ありがとうございます☆
なんて出会いに恵まれているんだろう、と感謝しています。



出来うれば、わたしもそういう光を思い出させるような、人間でありたい。
それが、わたしのなりたい自分の姿です。




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As who you are

黄金の魚
黄金の魚
ありのままの世界をありのままの姿で受け取ることはとてもむずかしい。

ちょっとした知識や経験は、世界の深さを想うのには役にたつけれど
そのせいで無駄なメガネをかけたように、実は本当の世界からは遠ざかる、ってこと。
よくある。



いらないものはヒッペガシたいんだけれど。




ありのままを受け取ることが出来たら、それは最もその豊かな魅力を余すことなく味わうことになるんだろう。


眩しすぎるほど光に溢れた世界を。

















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Harmony

先週の日曜は、滋賀県にある太郎坊宮阿賀神社での気功教室に参加してきました。
関西人ですが草津より北を訪れたのは初めてじゃないかしら?

山の中腹に見えるところが会場。
赤神山
赤神山

体操教室があるんだけれど参加しませんか?

と、尊敬するH先生からお誘いを受けたのがきっかけです。
体操教室、って気軽に聞いていたのとは違って、
本格的な気功教室でした。
身体の声に耳を済ますという運動は、いつも楽器を通して自分が行っている作業と同じことなので、違和感なく入っていけました。


先生は中健次郎さんという大先生でした。(そんなことも何も知らずに参加したのですが、)
やっぱり師によって導かれる世界の大きさ、広さ、深さが変わってしまうのが常なので、
全国に追っかけ弟子の方々がいらっしゃるのがよく分かります。


最近、なぜか素晴らしい先生方(音楽のジャンルでは収まらない)に紹介して頂くことが続いていて、
それも贅沢なことに、その先生たちに、わたし個人の訊ねたいことを問う時間が、偶然なのかなんなのか、与えられています。
大きな感激を頂いたり、そしてまた多少の時差があっても、必要なメッセージが届いたり。


例えば中先生に紹介してくださったのはH先生、H先生を紹介してくださったのはK先生、K先生を紹介してくれたのは・・・と、どんどん遡れるのですけれど、

次に会う人、きっと会わなくてはならない方へと繋がっています。

そしてわたしの疑問も、薄皮一枚ずつ剥いでいくようにですが、少しずつ答えに近づいている。


幸運と呼ぶ以上に、なにか意味があるんだと受け取っています。



大きな流れに身をまかせて。


さあ、楽しんでみよう☆











Mysterious power

那智の滝
那智の滝
那智の飛瀧神社敷地には青岸渡寺と神社がまさに隣同士にある。鳥居をくぐると熊野那智大社。
そこには巨大な大楠がいます。
大楠
大楠
この大きさは写真にはうつしきれない。見事な枝の伸ばし具合に感動。

ぜひ会いに行ってください!

Listen  to the world, Love the world

熊野の海
熊野の海
最近、次々に素晴らしい方々に引き合わせて頂くこと、美しい場所にお呼ばれすることが多く、その幸運に驚きと感謝と。
記録の意味も込めて少し公開します☆


写真は5月に訪れた熊野、新宮の海です。荒い波にゴロゴロ洗われて、海岸の石は丸い。